日本最北端の産地で育まれた〝伝統工芸テキスタイル〟

米沢市は、繊維産地としては日本最北の産地です。
米沢織のシルク生地は、国内有数の歴史を持つ伝統工芸でもあります。

御成山の帝国人絹跡より望む米沢市

青苧、シルク、レーヨン
伝統から発展した繊維の総合産地

米沢織の素材は、古代織に使用された青苧(植物繊維)から始まり、養蚕が行われるようになると、絹・シルク(動物繊維)へ以降し、近代になると国内初の人絹・レーヨン(化学繊維)が米沢で開発されました。これらの繊維素材の歴史を経て、現在は天然繊維と化学繊維の伝統的な総合産地として知られています。

繭

奈良時代から蚕が繭を作った土地

米沢市には、奈良時代(和同5年=西暦712年)創建と伝わる白子神社があります。そこには「神のお告げによって、桑林に蚕が生じて雪が降ったように白一色で、やがて繭を作った」と由緒が残っています。米沢の地では、その頃から養蚕がなされていたのかもしれません。江戸時代はじめには、草木染めの原料となる漆、桑、苧麻、紅花などの栽培がされていた記録があることからかなり古い歴史があったようです。

紅花染め

上杉氏が見出した特産物
織物の原料が輸出され繊維産地に

繊維産地・織物産業として盛んになったのは江戸時代米沢藩の頃。戦国大名と知られる上杉氏が米沢に入部(慶長6年=西暦1601年)してからのようです。上杉氏の重臣・直江兼続が特産物の生産を奨励し、苧麻など繊維原料を藩が買い上げて、南部藩などの藩に向けて輸出し始めました。

米沢織の着物と帯

織物産業の誕生
JFKが尊敬した〝なせばなる〟の精神

「なせばなる」の名言で知られる第9代米沢藩主 上杉鷹山の頃になると、藩政改革の一環として武士家中の婦女子らに織物を習得させて、それを京都などの上方へ輸出を始めます。それが米琉紬・長井紬・白鷹紬と呼ばれ、後に置賜紬と統一され現在の米沢織ブランドになりました。

明治頃出荷れた米沢織で作られた洋服

世界に羽ばたく米沢織

米沢織の生みの親とされる上杉鷹山が、第35代アメリカ大統領ジョン・F・ケネディーに最も尊敬する日本の政治家と紹介されると、米沢の名前は瞬く間に世界に知れ渡ることになりました。

明治・大正時代には海外向け製造が始まり、インドやアメリカに多く輸出され、織物産業都市「米沢」として世界中の流行と織物加工技術を取り入れながら発展しました。

GREAT PERSON

米沢織を作った主な偉人たち

Yonezawa Textile History

明治末期〜昭和初期の米沢織歴史ギャラリー

米沢織の特徴と強み

米沢織物が最も得意とするのは、先染めと呼ばれる染色方法です。古くから草木染めによって培った伝統的な技術です。糸から染めるため、生地になるまでに時間がかかりますが、ひとつの染料から細やかな濃淡が表現でき、本来の深みある色と色落ちがしにくい風合いある生地が織り上がります。

米沢織物の特徴は、呉服生地・洋服生地ともに一流の総合産地であること。企画、技術などの横の連携が取りやすいため、流行に敏感で、一つの織元に止まらない商品開発を可能としています。これが、世界中のアパレルブランドやファッションデザイナーに選ばれる理由のひとつにもなっており、今日ではパリ・コレクションをはじめ、世界中の一流ブランドの新作ファッションショーで、米沢織物が使用されている洋服は珍しくありません。

米沢を〝最高のテキスタイル〟産地に

米沢織物は世界のトレンドを吸収して、繊維の総合産地としてその技術は今でも発展し続けています。
そして、行方織物ではミカドシルクをはじめとする「一流の先染めシルク生地を製造」することに真摯に向き合っています。

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